雑誌『アフリカ』について(2009年版)
───そういうことは下窪さんに聞くのが手っとり早いでしょう。『アフリカ』は、どうして『アフリカ』なんですか?
下窪 なぜか、ぼくもよく分からないんだよね。冗談の出任せで「今度『アフリカ』って雑誌に作品を書いたよ」とか吹聴してたら、自然と次にやる雑誌の名前は『アフリカ』だ、となっていた。『アフリカ』にすべきだ! とぼくを説得した人が何人かいて、彼らの真意を問いただしてみたい気もする。だからぼくもよく分からない。ただ、そういうナンセンスな要素を大事にしたいという気持ちは強い。
下窪 なぜか、ぼくもよく分からないんだよね。冗談の出任せで「今度『アフリカ』って雑誌に作品を書いたよ」とか吹聴してたら、自然と次にやる雑誌の名前は『アフリカ』だ、となっていた。『アフリカ』にすべきだ! とぼくを説得した人が何人かいて、彼らの真意を問いただしてみたい気もする。だからぼくもよく分からない。ただ、そういうナンセンスな要素を大事にしたいという気持ちは強い。
───では、アフリカとは何の関係もないのですね?
下窪 いちおうはね、関係ない。ただ、思い返せば『アフリカ』を創刊する一年くらい前に、ゴーディマの『現代アフリカの文学』(土屋哲・訳/岩波新書)をたまたま手にとって、「アフリカ文学とは何か?」という章をめくっていたら、アフリカの文学は、その多くがアフリカの言語で書かれていない。英語かフランス語か、植民地にしている国の言語で書かれている。だからアフリカの言葉で書かれた文学、という定義は成り立たない。では、何か? 「世界からアフリカを見るのでなく、アフリカから世界を見」た文学だ、というようなことが書かれていて、考え込んでしまった。ぼくは日本語で書かれた文学を日本文学だと思っていた時期があったので、目を開かされる気がした。それに、日本ではほとんど知られていないと思うけど、アフリカの地域によっては、我々が慣れ親しんでいる西洋文学のイディオムに乗っかった文学、大雑把に言えば、世界共通となっている文学スタイルから逸脱した世界があって、どうせ文学をやるならぼくも「そっちの方向」を目指したいという気持ちがあったし、いまでもその気持ちに変りはない。もしかしたら、いわゆる世界の政治・経済を動かしているような“先進国の文学”よりも、世界的な動きから逸脱したような、そういう世界のほうが、よっぽど“文化的”に強いかもしれないと考える。そう感じているのは、もちろん、ぼくだけではないでしょう。『アフリカ』創刊時には、そういう思いが、どこかにはあったのかも。 |
───雑誌の成り立ちを教えてください。
下窪 2003年から2005年にかけて『寄港』という同人雑誌に、代表者、編集者として関わった。『寄港』は、ぼくの母校・大阪芸術大学文芸学科の卒業生で立ち上げた雑誌で、同大学で教えていた小川国夫、眉村卓といった著名な作家にも声をかけて、協力してもらった。関わった人は30人を越える大所帯の雑誌でもあった。ただ、途中から原稿が集まらなくなったり、各方面の意志が対立したりして、編集人としては「どんどん作品を出していく」という当初からのシンプルな目的が果たせなくなったり、妨害されたりして嫌気がさして、4冊出したところで止めた。ただ、2005年当時、京都で開催されていた「世界小説を読む会」という翻訳小説の新刊を読む会で知り合った神原敦子と話して、同人雑誌の活動だけは、何らかのかたちでつづけようと決意したわけ。それが、この『アフリカ』というかたちになった。
下窪 2003年から2005年にかけて『寄港』という同人雑誌に、代表者、編集者として関わった。『寄港』は、ぼくの母校・大阪芸術大学文芸学科の卒業生で立ち上げた雑誌で、同大学で教えていた小川国夫、眉村卓といった著名な作家にも声をかけて、協力してもらった。関わった人は30人を越える大所帯の雑誌でもあった。ただ、途中から原稿が集まらなくなったり、各方面の意志が対立したりして、編集人としては「どんどん作品を出していく」という当初からのシンプルな目的が果たせなくなったり、妨害されたりして嫌気がさして、4冊出したところで止めた。ただ、2005年当時、京都で開催されていた「世界小説を読む会」という翻訳小説の新刊を読む会で知り合った神原敦子と話して、同人雑誌の活動だけは、何らかのかたちでつづけようと決意したわけ。それが、この『アフリカ』というかたちになった。
※『寄港』創刊号(2003年6月発行)。表紙は小川国夫による題字と、樽井利和の写真。
───『寄港』と『アフリカ』の違いは? 下窪 『寄港』のころは、編集人としても経験不足だったし、あらゆる面で未熟な部分が大きかった。それに、『寄港』はだいたいどんな原稿でも掲載していて、編集人の仕事は“雑用”のようなものだった。それに対し、『アフリカ』には編集人であるぼくの意志が大きく反映されている。つまり、編集人が「良い」と思う原稿しか載らない。ただし、ぼくとしては「良い」の基準を設けて、「多少下手な、不器用な原稿でも、強い“中身”を感じられるものなら良しとしよう。反対に、ただ技術的に読ませる、人を面白がらせようとしている原稿でも、強い“中身”を感じられないものはボツにしよう」と決めた。 |
───『アフリカ』は40頁の号が多いですね。
下窪 これくらい薄くて、持ち歩きやすくて、読もうと思えば一通りさっと読めて、読み返そうと思ったら何度でも楽しめるような、そういう雑誌にしたいという気持ちが、創刊当初からあった。以前は、ぶ厚い電話帳のような雑誌にも、何冊か関わったけどね(笑)。そんなに原稿があるのなら、小出しにして、号数を増やしていくほうが、読者としては付き合いやすいでしょ。
───小説の雑誌なんですか?
下窪 最初の号(2006年8月号)の編集後記には、「『アフリカ』はいちおう「小説」の雑誌だ。「小説」の基準は適当だが、詩を捨てて散文を志す。ただし、詩をおろそかにはしない。念のために付け加えておくと、それは散文におけるポエジーというような陳腐なものではない」と書いた。どうしてそんな口の悪そうなことを書いたかと言うと、詩であること、小説であることにこだわるあまり、いま何を書くか、何を読みたいかという、ごくシンプルで基本的な議論を回避してしまいがちな詩人たちのグループや、大阪芸大の文芸学科を巡る文学者たちから「離れよう」としたからだ。彼らのようにやっていては、ぼくは書けなくなる、実際にみんな書けなくなっているという実感があったし、何とかしたかったの。
下窪 これくらい薄くて、持ち歩きやすくて、読もうと思えば一通りさっと読めて、読み返そうと思ったら何度でも楽しめるような、そういう雑誌にしたいという気持ちが、創刊当初からあった。以前は、ぶ厚い電話帳のような雑誌にも、何冊か関わったけどね(笑)。そんなに原稿があるのなら、小出しにして、号数を増やしていくほうが、読者としては付き合いやすいでしょ。
───小説の雑誌なんですか?
下窪 最初の号(2006年8月号)の編集後記には、「『アフリカ』はいちおう「小説」の雑誌だ。「小説」の基準は適当だが、詩を捨てて散文を志す。ただし、詩をおろそかにはしない。念のために付け加えておくと、それは散文におけるポエジーというような陳腐なものではない」と書いた。どうしてそんな口の悪そうなことを書いたかと言うと、詩であること、小説であることにこだわるあまり、いま何を書くか、何を読みたいかという、ごくシンプルで基本的な議論を回避してしまいがちな詩人たちのグループや、大阪芸大の文芸学科を巡る文学者たちから「離れよう」としたからだ。彼らのようにやっていては、ぼくは書けなくなる、実際にみんな書けなくなっているという実感があったし、何とかしたかったの。
※『アフリカ』の実質的な創刊号である2006年8月号。でも創刊号とは呼ばなかった。
───最近は詩も、たまに載りますね。 下窪 詩は載せないと言ったり書いたりしたことはないよ。でも、詩人も散文をしっかり書くことをすべきだと思う。言葉の無力さ、繊細さをいまの詩人たちの多くは感じていないような印象を受ける。それは小説書きでも一緒なのだろうが、作家はそこで書けなくなる。詩は本当に少ない言葉でも「それらしいかたち」になるので、イタズラに書けるという要因があるのかも。 ───いまごろ同人雑誌なんて流行らないものをして何になるの? という意見はないですか? 下窪 別に見返りを求めてやっているわけじゃないから。少なくても表面上は、ただ勝手に、自分の金と自分の時間を使ってやっているだけだと思う。最近は読者が増えてきて、『アフリカ』の新しい号を楽しみにしてくれている人もいるようなので、そういう読者に対する責任はあるけど。 |
※『VIKING』700号記念号(2009年4月)。富士正晴による創刊号のデザインが復刻された表紙になっている。
───参考にした雑誌とかは? 下窪 『寄港』のスタイルから『アフリカ』のスタイルへ移っていく過程で関わった雑誌に、『ムーンドロップ』『初日』といった雑誌があるけれど、彼らの活動には刺激を受けたかもしれない。ただ、なかには反発の気持ちもあった。あと、やっぱり「参考にした」と言えるのは『VIKING』かなぁ。 ───『VIKING』というのは、どういう雑誌? 下窪 戦後すぐの時期に、富士正晴という、ちょっと変わった作家がいるんだけど、彼によって創刊されて、いまでもつづいている珍しい雑誌で。「自らの存続を唯一の目的とする」という、ある意味、斬新なコンセプトをもった同人雑誌だけど、創刊から60数年、700号を越している巨人というか、変人というか(笑)。真似をする気はないし、できないけど、『VIKING』の基礎をつくった人たちのエピソードには共感する部分もけっこうあって。 |
※『青銅時代』創刊号。小川国夫が編集雑務をこなしていた。よく見たら表紙には号数が記されていない。
───下窪さんといえば、師匠ともいえる小川国夫さんがいますね。小川さんが無名時代にやっていた『青銅時代』は? 下窪 『青銅時代』という雑誌は、小川さんに聞いていた限りだと、いまでも年に一回くらいの頻度でつづいているらしいけど、ぼくは一度も手にしたことがなくて、藤枝にできた文学館の展示で創刊号を見たくらい。あの雑誌は、結局、学者たちが中心になったらしい話は聞いていて、それより、アカデミックな方面でもなく、ジャーナリスティックな方面でもなく、ひたすら“あぶれもん”の道を歩んできた『VIKING』のほうに、やっぱり共感する部分が大きい。 ───影響を受けた部分は意外と少ない? 下窪 でも、『青銅時代』初期のころの、小川国夫、丹羽正らの交友とか、無名時代の小川と立原正秋の『青銅時代』を介した友情とか、そういうエピソードには、やっぱり影響されているかも。文学が単なるビジネスになってしまったら、お終いだと思う。逆に、出版不況、文学の不振ということが言われるけれど、あれは業界の危機であって、本そのもの、文学そのものの危機ではないと思う。読者には関係がない。だからダメなのだと思う。本当のビジネスはその先にあるものなのに、取り違えている。 |
───まだまだ、つづけるのですか?
下窪 まぁ、止めるまでつづけます、としか言えないけど。書いてほしい人たちがいて、読みたい原稿があるうちは、止めずにつづける予定。自分の原稿を出すだけなら、もっと別のやり方もあるだろうけど、それだけでは満足できないし、「文学の活動」を「自分の作品を書くだけ」にしてしまったら、おそらくいまよりもっともっと狭っ苦しい活動になってしまうような気がする。また懲りもせず、って気がするけど、とにかく、つづけるしかないみたいだね。つづけていれば、何か良いこともあるかもしれない。あとは、良い読者に恵まれたら恵まれるだけ良い雑誌になるだろうし、それだけ。世の中全体的な動きとして“安易な感動”のようなものに流される傾向がつづいているけど、そういう風潮と逆の道を行っていることだけは確かだと思う。ぼくは自ら読もうとしない人に読んでほしいとは全く思わない。ただ、文学とか、音楽でも美術でも何でもいいけど、目を向ける、耳を傾ける、といった具体的な、真摯な姿勢がないと、作品は成立しないということを伝えていかなければ… といった義務感のようなものは感じているけれど。
下窪 まぁ、止めるまでつづけます、としか言えないけど。書いてほしい人たちがいて、読みたい原稿があるうちは、止めずにつづける予定。自分の原稿を出すだけなら、もっと別のやり方もあるだろうけど、それだけでは満足できないし、「文学の活動」を「自分の作品を書くだけ」にしてしまったら、おそらくいまよりもっともっと狭っ苦しい活動になってしまうような気がする。また懲りもせず、って気がするけど、とにかく、つづけるしかないみたいだね。つづけていれば、何か良いこともあるかもしれない。あとは、良い読者に恵まれたら恵まれるだけ良い雑誌になるだろうし、それだけ。世の中全体的な動きとして“安易な感動”のようなものに流される傾向がつづいているけど、そういう風潮と逆の道を行っていることだけは確かだと思う。ぼくは自ら読もうとしない人に読んでほしいとは全く思わない。ただ、文学とか、音楽でも美術でも何でもいいけど、目を向ける、耳を傾ける、といった具体的な、真摯な姿勢がないと、作品は成立しないということを伝えていかなければ… といった義務感のようなものは感じているけれど。